「修養 自分を磨く小さな習慣」
新渡戸稲造:著
三笠書房
前回のエントリーではこの本の中から「継続心」について書きました。今回は「逆境」についてのことを書いてみようと思います。
※前回のエントリー
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逆境をもたらすもの
新渡戸稲造はこの本の中で災いには二種類あると説いています。
一つは天から降ってくるもの、つまり天災、天命的なもの。
もう一つは自分自身が生み出してしまうもの、自業自得的なもの。
この二つのうちどちらが多いかと言えば、自分で生み出してしまうものの方がはるかに多い、とも書かれていました。
想像から描きだした逆境もある。すなわち、自分は自分の真価ほどの待遇を受けていないと考えて不足を感じ、自分で逆境をつくり出す者が多い。
人間はあさはかなもので、自分でしたことでも、とかく不首尾になると、これを他人になすりつけたがる。
自分にはこれだけの実力があるのに会社や上司はそれを認めてくれない!私はこれだけの実績を上げているのに、それに見合った待遇をしてくれない。誰も私を認めてくれない。あぁ、私は何て不幸者なんだ!
ツイッターのタイムラインを眺めていると時々こうした内容の投稿を目にすることがあります。酷い時には社会を逆恨みして刃傷沙汰におよぶ危険な輩がいたりもしますね。
人間ですから、やはり多少なりとも我が身可愛さというのはあると思うんですよね。何かうまくいかないことがある時には「おまえが悪い!」と誰かのことを指さしたくなるのは仕方ないこと。
だけど、そんな時は相手に向けた人差し指、それをツラいかも知れないけど、クッと曲げて自分の方に向けてみませんか。
前に勤めていた会社で私はこれを散々たたき込まれました。
「他責ではなく自責でものごとを考えろ!」と何度も言われたものです。
ここでいう自責で考えるというのは、「どーせオレが悪いんだ」といじけることではありません。
うまくいかない状況に対して、もっと自分が出来ることはないか?何か他の手は手はないか?と主体的に考えるということです。
正直、相手に向けた人差し指をクッと折り曲げるのはしんどいです。だけど「おまえが!」「おまえが!」と他人の責任にしているよりは、よほど主体的に生きていけるように思います。。
誰にでも逆境はあるものだ
いかなる人でも必ずそれ相応の逆境がある。外からは順境に見ても、心の中では泣いていることが多い。
「逆境」と「孤独」ってセットになっているのではないかと時々思うことがあります。
苦しい思いをしている時って「なんで私だけが・・・」って思うことがありますよね?
個人的な話しですが・・・
母親の介護で付きっ切りになって自分の自由な時間が極端になくなった時や自分がステージ3の舌癌と診断されて闘病生活に入った時。
私はFacebookを見るのが嫌で遠ざけてしまうことが何度もありました。
友人たちが遊びに行った先の写真を見ては「オレは何処にも遊びになんて行けないのに・・・」と心の中でひがみ、美味しそうな食べ物の写真を見ては「食べたくてもオレは食べられないのに・・・」と妬んだりしたものです。
でも、そうやって人を羨んだり、妬んだりしても自分の心はちっともラクにはなりませんでした。
そして、気づいたのです。
かつて自分が同じように遊びに行った時の写真や食べ物の写真を嬉々として投稿していた時、反面では上司に叱責されたり仕事がうまくいかずに悩んだりしていたことに。
どんなに幸せそうに振る舞っている人でも、人知れず悩んだり苦しんでいることがあるんですよね。
逆境の中でも希望を持つ
少し爪先立って前方を眺めれば、人間の生きているあいだには、一条の光明が前途に輝き、希望の光が見えるものである。
かつて後藤新平(明治大正の政治家)が勝海舟からこんなことを言われたそうです。
「首を横や縦に動かすことは知っているがね。何か事が起こったときに、チョイト首を伸ばして向こう先を見通すことのできねえ者が多い」と。
自分が逆境に陥った時には「今この瞬間」しか見ることが出来なくなり、未来の希望を失って落ち込んだり、自暴自棄になることがありますよね。
この本で勝海舟の言葉を読みながら、3年くらい前に読売新聞のコラムに書かれていたことを思い出しました。
かつてデンマークの推理作家ユッシ・エーズラ・オールスンが著作の中でこんなことを書いていたそうです。
「ラクダが砂漠に棲めて、キリンが棲めないのはなぜだろう」
キリンの場合、見渡すかぎりここには砂しかないと悟ってしまうが、幸運にもラクダはそれが分からない。
だからラクダはすぐ先にオアシスがあるかもしれないと期待しながら進むことができる。
知らないからこそ、見えないからこそ、希望を抱いて人生の旅を続けられる。
(出典:2016年1月5日 読売新聞「編集手帳」)
勝海舟は「首を伸ばせ」といい、デンマークの推理作家は首が長いキリンはダメだという。面白いですね。
真逆のことを言っているようで両者に共通しているのは「苦しい時には想像力を働かせよ」ということだと思います。
逆境はきっと誰にでもあるもの。だけど、それをうまく乗り越えられる人と乗り越えられずに潰れてしまう人がいる。その違いはちょっとした想像力があるかどうかなのかも知れません。
逆境から学ぶもの
いわゆる逆境があればこそ、われわれは人に対する情を覚えるものである。人の情けを知らぬ者が、どうして人情の真味を味わうことができよう。
2年前(2017年)、ステージ3の舌癌と診断されました。患部の舌の2/3を切除しなければならないし、手術後は食べること、話すことに障害が残るとドクターから説明を受けました。
一応、その時点では命に別状はないようでしたが、ある意味で我が人生にとって最大のピンチが突然訪れたのです。
気持ちが少し落ち着いて先ず考えたのが「セカンドオピニオンを受けてみよう」ということでした。
しかし、何処の病院に行けばいいのか分かりません。。
最初はあまり大騒ぎしたくなかったので友人、知人には癌のことは黙っているつもりでした。
でも、セカンドオピニオンを受けるにも早いに越したことはありません。Facebookに自分の病状を書き込み、セカンドオピニオンに適した病院があれば教えて欲しい!とSOSを発信したのです。
そうすると、夜遅い時間にもかかわらず友人の友人まで連絡を取って情報を集めてくれたり、かつてご両親が癌で治療した病院のことを教えてくれたりして、本当に助かりました。
また、入院前にわざわざ埼玉の僻地まで見舞いに来てくれたり、入院中にSNSで励ましてくれたりして友人たちには本当に今でも感謝しています。
自分が病気になったとき、そういう人の情けが心に染みました。
逆境に陥ったならば、逆境そのものを善用して、わが精神の修養に生かすのが良い。
幸いにも10時間以上にわたる手術は無事に終わりました。
それから1か月間の入院生活があったのですが、病院の天井を眺めながら寝ていると色々なことが頭を過っていきました。
手術後しばらくは声も出せなかったし、その後も舌の関係で本当に食べるのも話すのもうまく出来ず、あらかじめ分かっていたとはいえ「この不自由な身体なまま生きていかなきゃいけないんだな・・・」と暗い気持ちになることもありました。
でも、そのうち気づいたんですね。
命と引き換えに失ったものはたいしたものじゃないって。
確かに舌の機能の一部は失ってしまいました。
でも、全部を失ったわけじゃない!
少しおぼつかない話し方も障害ではなく新たな自分の個性だと思うようになりました。
失ったものの代わりに得たものもたくさんありました。
友人たちの情け、優しさに触れることができたし、自分が生かされていることに素直に感謝することができるようにもなりました。
人生のピンチに「なんで自分が・・・」という気持ちになることあると思います。だけど、それをピンチと捉えるか、自分が成長するチャンスだと考えるか、それを決めるのは自分自身なのです。
まとめ
前回のエントリーでは「継続心」について、今回は「逆境」について私が思うところを書いてみました。
この本の中にはその他にも「修養」を積むために克己心、勇気、本との付き合い方などが書かれています。
そもそも私が新年に際してこの本を読んでみようと思ったのは「自分を磨く小さな習慣」という副題に惹かれたからでした。
新しい年を迎えて何か新しい習慣を身につけたい!そのためのヒントが書かれているのではないかと思ったのです。
でも、いわゆる「ライフハック系」の本に書かれているような内容ではありませんでした。
その代わり、人生を歩むにあたって根源的な大切なものを教えられたように思います。
昔の人は・・・というよりも、歴史に名を残すような立派な人は日頃から自分に対して時に厳しく、時に客観的に向かっているのだなぁとも感じました。
手っ取り早く何かスキルを身につけたい!という人が読む本ではないと思いますが「心に一本芯を通したい」「自分をもっと磨きたい!」そんなことを思った時には是非、手に取ってみて下さい。
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