● 「論語と算盤」
● 渋沢栄一:著
● 守屋厚:訳
● 筑摩書房
[st-kaiwa1]久しぶりに「論語と算盤」を読み返してみました。[/st-kaiwa1]
2024年にも発行、流通すると言われている新一万円札の顔となる渋沢栄一の著書にしてロングセラーの1冊です。
今回の記事では、この本の終盤に書かれている「成功と失敗は、自分の身体に残ったカス」について書いてみたいと思います。
人生で成功するために必要な思考が学べます。
アマゾンの内容紹介
日本実業界の父が、生涯を通じて貫いた経営哲学とはなにか。「利潤と道徳を調和させる」という、経済人がなすべき道を示した『論語と算盤』は、すべての日本人が帰るべき原点である。明治期に資本主義の本質を見抜き、経営、労働、人材育成の核心をつく経営哲学は色あせず、未来を生きる知恵に満ちている。
渋沢栄一と「論語と算盤」について

まずはご存じない方のために渋沢栄一と「論語と算盤」について簡単にご紹介したいと思います。
渋沢栄一について
- 840年(天保11年)に埼玉県深谷市に生まれる
- 若い頃は尊皇攘夷の志士として活動する
- (高崎城の乗っ取りと横浜焼き討ちを画策したりしたらしい)
- その後、一橋家の家来となり後の徳川慶喜に仕える
- 幕臣としてフランスへ渡航した後、欧州諸国を見て回り見聞を広める
- (欧州の地で資本主義システムと経済力を学ぶ)
- 大政奉還により日本に帰国、大隈重信に請われて大蔵省へと入り新しい国づくりに参画する
- 大蔵省を辞職後、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取となる
- その後、約470社の設立に携わるほか、500以上の慈善事業にも関わり「日本資本主義の父」「実業界の父」と呼ばれる
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【渋沢栄一が関わった主な会社】
- 抄紙会社(のちの王子製紙)
- 東京海上保険会社(のちの東京海上火災)
- 日本郵船
- 東京電灯会社(のちの東京電力)
- 日本瓦斯会社(のちの東京ガス)
- 帝国ホテル
- 札幌麦酒会社(のちのサッポロビール)
- 日本鉄道会社(のちのJRグループ)
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1931年(昭和6年)92歳にて永眠
「論語と算盤」について
渋沢栄一は数多くの企業や団体の設立に携わり、明治以降の日本の資本主義、実業界に大きな足跡を残しました。
それと同時に早い時期から資本主義が持つ欠点に気づいていました。
そもそも企業の目的は?と聞かれたら「利潤の追求」と答える人が多いと思うのですが、それだからこそ「儲かれば何でもあり」とばかりに暴走する危険性があることに気づいていたんですね。
そこで渋沢栄一は「論語で事業を経営してみせる!」といって、経営の領域に「論語」の道徳的な考え方を持ちこむことで暴走を食い止めようとしたのです。
「論語」はご存知の通り、今から2500年くらいまえに、孔子と弟子たちの言行について書かれたものです。
「論語と算盤」はそんな渋沢栄一の講演会の口述をまとめたものです。
最初に刊行されたのは大正時代。この本はそれを現代語訳して読みやすくしたのものです。
成功も失敗もカスみたいなものだ

いつの頃だったか「負け犬」という言葉がちょっとした流行語のようになったことがありましたね。
人生を勝ち負け、あるいは成功、不成功という物差しを当てはめて語られることがあります。
しかし、渋沢栄一はこんなふうに言います。
成功や失敗というのは、結局、心をこめて努力した人の身体に残るカスのようなものなのだ。
成功など、人として為すべきことを果たした結果生まれるカスにすぎない以上、気にする必要などまったくないのである。
人生に大成功した渋沢さんにそんなこと言われてもね〜、と思わなくもないですが、その裏には「論語」のこの言葉があると思うのです。
「富(ふう)と貴とは、是れ人の欲する所なり。
其の道を以て之を得ざれば、処(お)らざるなり。
貧と賤とは、是れ人の悪(にく)む所なり。
其の道を以て之を得ざれば、去らざるなり。
これを渋沢氏は次のような言葉に直して語ってます。
「人間であるからには、だれでも富や地位のある生活を手に入れたいと思う。だが、まっとうな生き方をして手に入れたものでないなら、しがみつくべきではない。逆に貧賤な生活は、誰しも嫌うところだ。だが、まっとうな生き方をして落ち込んだものでないなら、無理に這い上がろうとしてはならない」
つまり、富や地位を得るなら、まっとうな生き方をして手に入れなさい。ってことを言ってるわけです。
これを逆読みすると、まっとうな生き方をしても、しなくても富や地位を手に入れることができる・・・と言ってますよね。
まっとうな生き方をしなくても富や地位を手に入れることはできる・・・これこそ資本主義の欠点であり、暴走する要因になると渋沢栄一は見抜いていたと思うのです。
仮に富や地位を手にすることを「成功」と呼ぶなら、それは「結果」に過ぎなくて、大切なのはそこに到る「まっとうな生き方」というプロセス。
だから、結果に過ぎない成功も失敗もカスだ!と言うのでしょう。
彼らは物事の本質をイノチとせず、カスのような金銭や財宝を魂としてしまっている。人は、人としてなすべきことの達成を心がけ、自分の責任を果たして、それに満足していかなければならない。
勘違いしてはいけないのは、「カス」だと言ってますが、渋沢栄一は別に成功することを否定しているわけではないという点ですね。
成功のカギは運命と知恵

まっとうに生きていたからといって必ずしも成功するとは限らない。
いくら努力していても、成功するとは限らない。
反対に大して努力していなくても、時流にうまく乗って大成功を収める人もいる。
これって、ある程度の人生経験がある人なら頷いてくれると思うんですよね。
成功と失敗を分けるものの一つに「運、不運」ってものがある、と考える人もいると思いますが、渋沢栄一はこんなふうに言います。
知恵ある者は、自分の運命を作るというが、運命のみが人生を支配するものではない。そこに知恵が加わって、初めて運命を開いていくことができるのだ。
普通の人は往々にして、めぐりあった運命に乗っていくだけの智力が欠けている。
「チャンスの神さまには前髪しかない」ってよく言うじゃないですか。
チャンスが巡ってきても、それを掴むには知恵が必要だ、と渋沢栄一は言います。
もっと言えば、チャンスが巡ってきたときにそれを活かすことができるように、準備(知恵をつける)をしておけ、ってことですね。
とにかく人は、誠実にひたすら努力し、自分の運命を開いていくのがよい。もしそれで失敗したら、「自分の智力が及ばなかったため」と諦めることだ。逆に成功したなら「知恵がうまく活かせた」と思えばよい。
たまたま運がよくて成功しただけなのに、それを自分の実力以上に過大評価して浮かれまくって、挙げ句の果てに急降下!って人が時々いるじゃないですか。
「チャンス」も「運・不運」も目には見えないもの。だから自分の成功(失敗)がチャンスによるものだったのかどうかって、あまり考えても仕方ないのかなって思うんですよね。
渋沢公が言うように、「成功すれば良し、失敗しても腐らず努力」でいいのではないでしょうか。
たとえ失敗してもあくまで勉強を続けていけば、いつかはまた、幸運にめぐまれるときがくる。
お天道さまは見ている

「奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。」いきなり「平家物語」なんかを持ち出してしまい、スマヌ、スマヌ。
本書の中にこれと同じようなことが書いてあるので、つい・・・
人生の道筋はさまざまで、時には善人が悪人に負けてしまったように見えることがある。しかし、長い目で見れば、善悪の差ははっきりと結果になってあらわれてくるものだ。
正しい行為の道筋に沿って物事を行う者は必ず栄えるし、それに逆らって物事を行う者は必ず滅んでしまうと思う。
渋沢栄一にとって成功や失敗は、うたかたの泡みたいなものと考えているようで、それについて考えるよりも「なるべくそのような浅はかな考えは一掃して、社会を生きるうえで中身のある生活をするのがよい」と説く。
一時の成功や失敗は、長い人生や価値の多い生涯における、泡のようなものだ。
成功や失敗のよし悪しを議論するよりも、まず誠実に努力することだ。そうすれば公平無私なお天道さまは、必ずその人に幸福を授け、運命を開いていくよう仕向けてくれるのである。
私たちが「春の夜の夢」あるいは「風の前の塵」とならないためには、誠実に努力をして、正しい行為をつづけるという王道を歩め!ってことですね。
感想
この本が出版されたのは大正5年(1916年)ということなので、もう100年以上も前なんですね。
それからずっと今も読み継がれているのは、もしかしたら渋沢栄一が求めた経営に「論語」の考えを取り入れるという理想が未だにこの国では達成できていないからなのかもしれない。。そんなことを思ったのです。
現に企業ぐるみでの粉飾決算などの不祥事は後を絶たないし、利益至上主義の考え方も相変わらず根強いものがありますよね。
(きっと草葉の陰で渋沢公も嘆いていることでしょう・・・)
ところで孔子は「利は義の和なり」という言葉を残しています。
これは「まじめに義を積み重ねて行けば利益は自然と発生する」といったような意味です。
ひたすら「まっとうに生きる」ことを説く渋沢栄一にとって「義」とは何だったのでしょうか?
この本の最後にこんなエピソードが書かれてます。
ある日のこと。三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎から料亭に招待されたい渋沢栄一。
行って、話を聞いてみると岩崎と渋沢で大きな富を独占する強者連合の誘いだったとのこと。
しかし渋沢は「富は分散されるべきものだ。独占すべきものではない」と主張して譲らなかったという。
岩崎と議論を重ねるも、結局は折り合いがつかず渋沢は席を立って帰ってしまったそうです。
このエピソードには渋沢の人生哲学がよく現れていると思う。
渋沢にとっての「義」とは、「いろいろな事業をおこして、大勢の人が利益を受けると同時に、国全体を富ましてゆきたい」という大志にあったのでしょう。
もしも「利」を優先するのなら、あれだけ多くの企業の立ち上げに関わっていたわけですから、渋沢財閥みたいなものを作っていた筈ですよね。
資本主義には利益を求めて暴走するかもしれないという欠点がある。それを防止するために渋沢は「論語」という道徳的な思想を経営に持ち込みました。
私たちの心の中にも「一時の成功」「目先の利益」「自己都合」といった『欲』に駆られて暴走しかねない弱さがありますよね。
まぁ、個人の『欲』を全否定する気はまったくないのだけど(時には、自分の夢を叶える原動力になったりしますからね)、やっぱり欲の塊みたいになるのは「いかがなものか?」って思いますよね。
暴走しそうになる自分の心を見つめ直すために、渋沢栄一の言葉に耳を傾けてみるのもいいかもしれません。
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