【令和の感染症対策は江戸時代よりも遅れてる?】「感染症の日本史」磯田道史:著
● 「感染症の日本史」
● 磯田 道史
● 文春新書
[st-kaiwa1]新型コロナウイルスの感染拡大が広がってますね。[/st-kaiwa1]
かつて日本は天然痘やスペイン風邪などの感染症に襲われ、そして乗り越えてきた歴史があります。
その当時の人々はどんな対策を行ない、どのように感染症を克服してきたのでしょうか?
今回ご紹介する「感染症の日本史」の著者は映画「武士の家計簿」の原作者であり、テレビでもお馴染みの歴史学者、磯田道史氏。
過去の感染症の歴史に焦点を当て、その時々の史実から現在のパンデミックに活かせる教訓がいくつも書かれてます。
アマゾンの内容紹介
一級の歴史家が、平安の史書、江戸の随筆、百年前の政治家や文豪の日記などから、新たな視点で、感染症と対峙してきた日本人の知恵に光をあてる。
新型ウイルスに対するワクチン、治療薬も確立していない今だからこそ、歴史を見つめ直す必要がある。
「給付金」も「出社制限」も「ソーシャル・ディスタンス」もすでにあった! 今こそ歴史の知恵が必要だ!
江戸の医学者の隔離予防論

奈良時代、日本を襲った疫病といえば「天然痘」で、当時の有力豪族であった藤原四兄弟が揃いも揃って4人ともこの天然痘で病死したことが伝わっています(もっとも当時の人達は長屋王の呪いで死んだと噂していたとか・・・)
それはともかく、この疫病を鎮めるために聖武天皇が奈良の大仏を建立したのは割と有名な話しですよね。
医学がまだ発達していない頃は、疫病への対処はこのように神頼みだったり、おまじないだったのです。
しかし、江戸時代になると現代に通じる感染予防策を説く医者が登場しました。
感染防止には、まじないではなく、隔離をと説く医者が登場したのです。 橋本伯寿 という医学者ですが、今日、一般には忘れ去られています。彼は『断毒論』(一八一〇年刊)、『国家断毒論』(一八一三年刊)で、天然痘の隔離予防策を広めました。
この橋本伯寿という医者はどのような感染症予防を提唱していたのか?
●消毒
消毒の概念もすでに登場しています。病中の衣類を洗濯しなければ感染すること、古着は買わないほうがよいが、貧家でやむをえない時は、〈一夜、水に浸し、洗濯〉することとしています。
●外食の禁止
痘瘡流行の時は、飴菓子の類、すべて沽食い(かいぐい)をきびしく禁ずべし
●集会の禁止
痘瘡流行の時は、祭祀、劇場観場(しばいけんぶつ)、すべて人衆集まる所へ行て香触(かぶれ)ざるように遠慮すべし
●登校自粛
疱瘡流行のあいだは、習書、読書等すべて、稽古事にて、他処へ行くを遠慮すべし
また、一度感染した人を「免疫獲得者」として看護の戦力にすることも提唱してます。
里を離れたる所に、小屋を造り、病中の雑具を調え、介抱、薬用の事は、以前、疱瘡を病みし人を庸え(やとえ)
こうして並べてみると、江戸時代も現代も感染症対策でやることはあまり変わらないなぁと思うと同時に、200年以上も前の江戸時代の医学は案外とスゴイものだったんだなぁと感心させられます。
明治政府の自粛要請

時代は江戸時代から明治へと。
明治政府も「牛疫」という家畜伝染病の対策に追われることになります。この「牛疫」はヒトには感染しない伝染病だったようですが、それでも、明治政府は対策を呼びかけます。
これを受けて、明治政府は「太政官布告」を出しました。 「生きた動物や皮革の輸入を禁止し、牛疫に感染したとおぼしき牛がいたら、すぐ撃ち殺して、火中に投じ焼却せよ」 さらに明治新政府は、港では〈厳に入船を改め〉、船中に病人がいれば〈医官改めの上、 其病にあらざれば上陸を免ず〉、病気でないことを医官が確認した上でないと上陸させないとしたのです。これが検疫のはじめになります。
鎖国体制だった江戸時代から明治時代になると海外との貿易などが行われるようになりました。
それに伴って海外から疫病も入ってくるようになったのです。
そこで明治政府は今でいうところの港での検疫を行ない水際対策を行いました。
加えて、国民に対しても生活面での自粛を呼びかけるのですが、その内容が今とはちょっと違っているんですよ!
実は、この「牛疫」は、ヒトには感染しないのですが、この「太政官布告」は、国民の生活の細部に立ち入るもので、結果的に、「近代的な感染症対策」の先駆けとなりました。今でいえば「国民への生活面での自粛要請」です。まず体や衣服を清潔に保つこと、掃除をすること、〈天気よき日には〉窓を開けて換気をすることを、国家が要請したのです。 さらにすごいのは以下の布告です。 〈酒家は 絶て禁ずるには及ばざれども、暴飲すべからず、かつ房事を節すべし〉。酒を断てとまでは言わないが、暴飲は慎め、というわけです。さらに「房事」すなわちセックスも「節制せよ、回数を減らせ」とまで踏み込んでいます。疲れてしまうと病気に対する抵抗力が落ちるからでしょう。
港での検疫、消毒、換気などは現代にも通じるものがありますが、驚くのは「酒を飲むなとは言わないが、暴飲するな!」とか、「房事(性行為)を慎め、回数を減らせ」と言ってる点ですね。
今だったら、私権の制限だ!と大騒ぎになると思うのですが・・・
ナマぬるかった大正期のスペイン風邪対策

江戸時代、明治時代とそれなりに感染症対策を講じてきたわけですが、大正期に入ってスペイン風邪の流行時に当時の政府は何とも消極的な対策しかとらず、多数の犠牲者を出すことになってしまいました。
要するに、内務次官は「呼吸保護器=マスクと、うがいをせよ」といっただけでした。
大正の日本政府は警視庁の衛生係が新聞を介して、「なるべく人の集まる場所に行かぬがよい」と広告しただけで、「隔離」や「社会的距離戦略」を丁寧にやらなかったのです。
この当時は原敬内閣で、第一次大戦のさなかで国内では米価が高騰して米騒動が起こったりしていた頃です。
なぜ、原敬内閣が「強い」対策を打ち出せなかったのか、著者の磯田氏は次のように書いてます。
大正期の政党内閣は、選挙も気にします。国民や経済に負担を強いる強い感染予防の規制は、ためらいが強かったのです。
感染予防と経済の両立を掲げて、対策が後手に回ってると批判されることも多い現政権ですが、どこか大正期の原敬内閣と似ているのかもしれません。。
江戸時代にもあった給付金

昨年(2020年)、新型コロナウイルスの感染拡大による経済の落ち込みから国民全員に10万円が給付されましたよね。
こうした定額給付金はリーマンショックの後にもありましたが、実は江戸時代にも感染症の拡大にともなって庶民に食料品の配布などの生活支援が行われていました。
岩国藩の取り組み

今の山口県内にあった岩国藩(岩国領)は疫病(疱瘡)の感染が拡大した時に徹底した隔離政策を実行しました。
疱瘡にかかった患者はもちろん、患者を看病した者、患者の家の隣人、病家を訪れた人、隔離先の村人なども『強制隔離』しました。
しかし、岩国藩は強制隔離という強い措置の一方で手厚い生活支援も行いました。
岩国藩の施策で注目すべきは、単に隔離を強制するだけにとどまらなかったことです。「退飯米」といって、病人、看病人、同居人などの隔離費用を、生活費も含めて、領主が負担したのです。
こうした徹底的な隔離政策をとったことで、岩国藩は主目的であった藩主の感染を防ぐことができたのです。
徳川将軍は、歴代十五人中十四人も疱瘡に罹患したのに、岩国藩の殿様は、「歴代だれひとりとして痘瘡にかかっていない」のです(『種痘という〈衛生〉』)。「退飯米」も含め、大きなコストを払いましたが、藩主の感染を防ぐという目的は達成されたことになります。
この時代の感染症対策の主目的の一つは徳川将軍や領主(殿様)を感染させないことだったのですが、岩国藩は徹底的な隔離と生活支援によって、その目的を見事に達成したわけです。
米沢藩(上杉鷹山)の取り組み

名君として知られる米沢藩の上杉鷹山はある意味、岩国藩とは真逆の対応をとりました。
上で書いたように江戸時代の感染対策で大事なのはいかにしてお殿様を感染から守るか、ということでした。
しかし、上杉鷹山は次のような命令を出します。
「家内に疱瘡、麻疹、水疱の人がいれば、出仕登板を引き伸ばすように、先般、指示を出したが、御内証、表向ともに遠慮に及ばない」
「御内証」とは、殿様の近くでの仕事。「表向」とは政務の役所のこと。
つまり、鷹山は自分が感染するリスクを承知のうえで「出勤の自粛」ではなく、お城への出勤を求めたのです。
なぜ、鷹山がこのようなことを行ったのか?その理由について著者の磯田氏は次のように書いています。
私の考えでは、鷹山の意図は「行政機能をストップさせないこと」にありました。登城を禁止すれば、藩主への感染リスクは低下しますが、その分、役所の仕事も停滞せざるをえません。感染症の流行は、一種の非常事態です。しかも飢饉と重なることも多い。そういう状況で、役所が機能不全を起こしたら、困るのは領民たちです。そこで鷹山は「自分にうつしても構わないから、役所を動かせ」と指示したのです。
さすが上杉鷹山!名君と呼ばれるだけのことはあります。
しかし、鷹山が行ったのはこれだけではありませんでした。
●生活困窮者の支援
「非常の流行に対しては、なかなか人力が及ぶところではなく、はなはだ気の毒に思う。生活が立ちいかなくなり、とくに苦しんでいる者がいるだろうから、かかる者については、頭領または近隣の者がよくよく心を用いて、さっそく申し出なさい」
●医療チームの結成
江戸から天然痘専門の医者も呼び寄せて、対策チームの指揮を執らせました。
●医療の無償提供
当時、往診の際には、医者にお酒を出す習慣があったので「病家や疱瘡人は、衣服を少しも飾らないでよい。酒や肴を出すのも無用」としました。しかも「薬礼に及ばず」、医者への謝礼も不要としました。医療の無償提供です。
●医療格差の解消
都市と山間部の医療格差を問題にしたのです。江戸から来た医者一人だけでは手が回らないので、「薬剤方」と「禁忌物」に関する心得書を刊行して、遠方の山間部の人々にまで配布しました。地元の医者に対しては、「上手な医者の指示を受けて、治療に携わるように」と命じています。
鷹山がこれだけの対策を行ったにもかかわらず、米沢領内では多くの死者が出てしまいました。鷹山は多くの領民が亡くなったことを悔やみ「去年、疱瘡流行、国民夭折につき、年始御儀式を略殺す」と、正月の祝賀儀式を取りやめたそうです。
こうした上杉鷹山の感染対策について著者は次のような言葉を書き記してます。
鷹山は、「御国民療治」という言い方をしています。「国民」、つまり大切な藩の領民は、必要な医療を受けなくてはならないという強い意思に基づいて、次々に手を打ちました。江戸時代に「藩主よりも領民のほうが大事だ」という意識を持った為政者がいたのです。これは現代を生きる私たちが忘れてはならないリーダーのあり方だといえます。
古文書を読んでいると、「江戸時代の我々より後退していないか」と鷹山に叱られているような気になります。
感染症対策でやるべきことは歴史が答えを出している

感染症対策の話とは違うのですが・・・
江戸時代、岡山藩で大洪水があった時の話し。
江戸時代の話になりますが、承応三(一六五四) 年、岡山藩で大洪水が起き、領民が飢死する状況で、殿様の池田光政は、「救い米」(男に二合、女と十五歳以下の子供に一合) を配ろうとし、十人の 郡奉行 と個別面談をしました。この時の記録が、『池田光政日記』の「八月十八日の条」に残っています。 郡奉行たちが「不正受給が生じる」と 躊躇 するのに対し、光政はこう応えます。「多少だまし取られるのは仕方がない。人を死なせてしまうのが大悪だ」。
いつの時代も役人の言うことは・・・と思いつつも、池田光政公の英断は素晴らしいですね。
この英断について著者は次のようにコメントしてます。
今回の緊急経済対策でも、公平性など細部の議論が長々とありました。不安を解消するのは、すばやさです。一気に一律に給付を行う。これが池田光政が出した答えで、まさに正解でした。 我々がやるべきことは、すでに歴史が答えを出していることが多いのかもしれません。
まとめと感想

「感染症の日本史」の中から主に江戸時代の感染症対策と生活者支援について紹介してみました。
全体を読んで感じたのは今も昔も感染症対策でやってることに大差はない、ということ。
「大差ない」というのは、国や藩というマクロ的な話しだけではなくて、個人レベルでも同じこと。
文豪、志賀直哉が自分自身がスペイン風邪に罹患した体験をもとに書いた短編小説「流行感冒」が本書の中で紹介されてます。
志賀直哉は『三密回避』のために、自身の家で働いている女中さんたちに対して夜芝居を見に行くことを禁じます。
しかし、女中さんの一人が「薪がなくなった」とウソをついて家を抜け出し、夜芝居を見に行ってしまいます。これに激怒した志賀はクビを言い渡そうとしますが、奥さんから執り成されたとのこと。
だけど、そんな志賀直哉自身が出入りしていた植木職人と一緒になって作業するなどの『濃厚接触』でスペイン風邪にかかってしまうのです。
〈私は気をゆるした〉と志賀が書いているように、流行がいったん収まったとき、油断で行動規制を緩めることが一番危ないことがわかります。
令和の現代でも感染が再拡大をすると多くの人が口々に「気のゆるみ」と言いますが、100年前に志賀直哉も同じことを言っていたのです。
この記事を書いている2021年1月の時点では首都圏を中心とした感染者の拡大が収まる気配が見えず、ついには再度の「緊急事態宣言」まで発出されるようです。
いったい、いつになったら収束するのか?
最後に、この本で一番印象的だった言葉を紹介して終わりたいと思います。
目下心配なのは、将来不安と経済苦による自殺者の増加です。リーマンショックと違って、感染の波はいずれいったんはおさまり、一、二年のうちにはワクチンができます。それまでの我慢です。自殺だけはどうか思いとどまっていただきたいのです。歴史上、終息しなかったパンデミックはありません。
コメント