先日、大きな話題になった「人生会議」のPRポスター。賛否両論ありましたが、表現方法や受け止め方ばかりに話題が集中し、「人生会議」そのものについての議論があまりなかったのは残念でした。
[st-kaiwa1]個人的には、1年に一度は「人生会議」をやった方がいいと思ってます。
今回は「人生会議とは何か?」「なぜ1年に一度、人生会議をやった方がいいのか?」ということについて、私の体験を踏まえて書いてみたいと思います。[/st-kaiwa1]
前半では、今回の騒動のまとめや「人生会議とは何か?」についてまとめました。
後半では私の体験を踏まえて、人生会議の必要性をまとめてあります。
賛否両論だった「人生会議」のPRポスター運動を振り返る
2019年11月25日に厚労省から「人生会議」のPRポスターが発表されました。
ポスターにはお笑いタレントの小藪さんが鼻にチューブを付け、病床に横たわる写真とともに、フラットになり掛けている心電図の波形と次のような文言が掲載されていました。
まてまてまて 俺の人生ここで終わり? 大事なこと何にも伝えてなかったわ それとおとん、俺が意識ないと思って 隣のベッドの人にずっと喋りかけてたけど 全然笑ってないやん 声は聞こえてるねん。 はっず! 病院でおとんのすべった話聞くなら 家で嫁と子どもとゆっくりしときたかったわ ほんまええ加減にしいや あーあ、もっと早く言うといたら良かった! こうなる前に、みんな 「人生会議」しとこ
このPRポスターが発表されると、癌患者の支援団体や癌患者の遺族からの抗議が殺到し、厚労省が自治体に送るはずだったポスターの発送を中止する事態になりました。
ツイッターでも賛否両論状態でしたが、このポスターに反対している方々の意見はおおむね「患者さんや遺族の気持ちに配慮していない」というものであったように思います。
個人的には、このポスターのどこにも「癌」という言葉はないのに、なぜか癌患者を前提に議論されていることに「?」っていう気がしました。ちょっと不思議。
そもそも「人生会議」とは何か?
今回、話題になったPRポスター。そもそもは「人生会議」についての啓発が目的でした。
ところで、「人生会議」って、なんでしょうか?
コトの発端になった厚労省のwebサイトには、次のようなことが書かれています。
誰でも、いつでも、命に関わる大きな病気やケガをする可能性があります。命の危険が迫った状態になると、 約70%の方が医療・ケアなどを自分で決めたり、望みを人に伝えたりすることが出来なくなると言われています。
自らが希望する医療・ケアを受けるために、 大切にしていることや望んでいること、どこで、どのような医療・ケアを望むかを 自分自身で前もって考え、周囲の信頼する人たちと話し合い、共有することが重要です。
自らが望む人生の最終段階における医療・ケアについて、前もって考え、 医療・ケアチーム等と繰り返し話し合い共有する取組を「アドバンス・ケア・プランニング(ACP)」と呼びます。
「自らが望む人生の最終段階における医療・ケア」(厚生労働省)
人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合う取り組み、「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)」について、愛称を「人生会議」に決定しましたので、お知らせします。
「ACP(アドバンス・ケア・プランニング)の愛称を「人生会議」に決定しました」(厚生労働省)
つまり、人生の最後をどこで、どのような医療を受け、どのように過ごしたいのか?ということを本人、家族、医療関係者などと事前に話し合っておきましょう、という取り組みのことですね。
厚労省がこのような取り組みを推進している背景としては、
・死の間際、多くの人が意識混濁などにより自分の意思を示すことができないでいる
・結果として、本人が望んでいない延命治療がおこなわれ不本意な形で人生を終えるケースが発生してしまう
このようなことがあるのだと思います。もちろん、余計な(望んでいない)延命治療を減らして国の医療費負担を減らしたい!という厚労省の思惑も透けて見えるような気もします。
「人生会議」のやり方について 何を考え、何を決めるのか?
今回のPRポスターの表現方法などに反対する人はいても、「個人の意見や気持ちを尊重して、人生の最後を迎えられるようにしましょう」という「人生会議」の目的そのものに反対する人っていうのは、殆どいないのではないでしょうか?
では、「人生会議」では、何を考え、何を決め、何を話し合えばいいのでしょうか?
厚労省と神戸大学が「人生会議」のやり方についてまとめたサイトを公開しているので、それが参考になると思います。
「ゼロから始める人生会議 実際にやってみましょう」(厚労省)
「これからの治療・ケア に関する話し合い-アドバンス・ケア・プランニング -」(神戸大学)
これらのサイトで推奨されているものをまとめると、以下のようになります。
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- 自分の人生の時間が限られている時、大切にしたいことは何か?
- どのような状態になった時に「生き続けるのは大変だ」と感じるか?
- 自分が「生き続けるのは大変だ」と感じる状態になった時に、どのように過ごしたいか?
- 自分が医療やケアについて意思表示ができなくなった時に、代わりなる信頼できる人は誰か?
- 自分で意思表示できなくなった時に、自分の意思と家族の考えが違うときはどうして欲しいか?
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1年に一度は「人生会議」をやろう!
今回のPRポスター騒動をネットで眺めながら、私は「1年に一度は「人生会議」をやった方がいいのではないか?」と考えるようになりました。
その理由は主に以下の3つです。
- 自分の最期は自分で決める
- 家族に最期の選択の負担をかけない
- 人の心は移り変わるもの
自分の最期は自分で決める
誰だって、「いい人生を送りたい」って思いますよね。
自分の人生のタイムアップがいつか?は、神さまにしか分かりませんが、最後まで「どう生きるか?」というのは自分の意思で決められものじゃないですか。
「とことん、治療してなるべく長く生きたい」と思うも、「自然のままに逝きたい」と思うも個人の自由。
その自由というのは、最大限、尊重されるべきものだと思うのです。
ちなみに自分の最期は、「延命治療は要らない。だけど、苦しかったり痛いのは嫌なので、緩和ケアはしっかりやって欲しい」と思ってます。
家族に最期の選択の負担をかけない
高齢の親が入院する時、病院側から「延命治療はどうされますか(延命治療を希望しますか)?」と聞かれることがあると思うんですね。
その時、親から最期をどう過ごしたいか?ということを聞いていなかったから、どうしますか?
私の母が入院した時も病院側から延命治療のことについて質問を受けました。
母は常日頃から「自宅で最期を迎えたい」ということは言っていましたが、延命治療のことについては特に何も言ってませんでした。
それでも、何かしらの答えをしないわけにはいきません。
弟と相談して「延命治療は希望しない」ことを病院側に伝えました。
日ごろの母の言葉などから、おそらく過度な長生きは本人も望んでいないだろう、と推察したのです。
それから数日後、母は家族に看取られながら静かに旅立っていきました。
人の生き死にを決める選択を負うのは、家族といえどもやはり心理的な負担が大きいと思うんですよね。
母の最期に延命治療は希望しないことを決めましたが、今でも時々「本当にあれでよかったのかな?」と思うことがあります。
家族や身近な親しい人たちに、そういう心理的な負担をかけないためにも、「最期はどうありたいか」ということを、きちんと意思表示しておくことは大切。
人の心は移り変わるもの
ネットで読んだあるお婆ちゃんの話。
「長生きしても何もいいことなんてない。早くお迎えにきてもらいたい」
お婆ちゃんは日ごろから周囲の人にそういう話をしていたそうです。
でも!
病気が進行して、いよいよ!というときに、お医者さんに「先生、わたし死にたくない」と呟きました。
その後、お婆ちゃんは何とか持ちこたえて、元気を取り戻しました。
そして、今でも周囲の人に「長生きしても何もいいことなんてない。早くお迎えにきてもらいたい」と話しているそうです。
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「人の心は変わるもの。だから、何度でも考える。何度でも話し合う」
これは、『終活』などでもよく言われていることです。
自分の人生の最期をどう過ごしたいか?
とても繊細な問題ですよね。だからこそ、気持ちが変わってしまっても、それは責めるべきことではなく、むしろ積極的に納得するまで考えたり、話し合ったりする問題だと考えられてます。
私が「人生会議」を1年に一度!と思う理由もここにあります。
一度決めたから、それでよしっ!ということではなく、1年に一度は昨年までの自分の考えにとらわれずに、今の気持ちに向き合う。そういうことが大切な気がします。
お正月や誕生日は人生会議のチャンス!
1年に一度、自分の気持ちに向き合う。
分かっちゃいるけど、なかなか積極的に出来ないものですよね。
まして、自分の死のことなんて、できれば目を背けたいし、自分が死ぬ場面のことなんてリアルに想像もできない。。
そこで、わたしの提案は「お正月か誕生日に人生会議をやろう!」です。
お正月や誕生日に、これからの抱負を考えたり、これまでの人生を振り返ったりする人って多いんじゃないかと思うのです(当社調べ!)
「これから」を考えるときに、人生の最後の時をどう過ごしたいのか?を考えてみるのもよいのではないでしょうか?
ポイントは「どこで、どうやって死にたいか?」ではなく、「最後の瞬間まで、どうやって自分らしく生きたいか?」と考えること。
あくまでも、「死」にフォーカスするのではなく「生」に意識を向ける。
そうすることで、少しは心理的には前向きに考えられるのではないでしょうか?
自分の希望がまとまったら、それを紙に書き出す。
その後、それを家族や信頼できる人に話したりしないといけないのですが、心理的に抵抗があるなら、書き出した紙を保険証やお薬手帳と一緒にまとめておけば良いのではないかと思うのです。
自分一人で決められないこともある
「最期の時をどう過ごしたいか」という個人の希望は最大限に尊重されるべきものだと思います。
だけど、あくまでもそれは「希望」でしかないというのも事実なんですよね。
例えば、最期は自宅で・・・という人は多いと聞きます。
そうすると、在宅医療はどうするか?という問題になります。
自宅の近くに在宅医療を支えてくれるお医者さんがいるのか?いたとしても、自分の希望に沿った医療行為が受けられるのか?そういった問題は、やはりソーシャルワーカーさんやケアマネージャーさんの力を借りないといけません。
私は上の方でも書いたとおり「余計な延命治療は希望しないけど、緩和ケアはしっかりやって欲しい」と思ってます。
だけど、これだと漠然としていることも分かってます。
緩和ケアは、例えば今のかかりつけの病院で受けられるのか?それともホスピスに転院が必要なのか?
緩和ケアといっても、具体的にどんな処置が適切なのか?
こういった問題は、やはり自分一人じゃ決められない。だから、どこかの段階で周囲の人と話し合うことが必要になるんですよね。
まとめ
PRポスターの表現方法が適切か否かばかりが注目された人生会議(ACP)ですが、もっと、その取り組みの目的や狙いについて議論されないのは、もったいないと思って今回の記事を書きました。
自分が死ぬ場面のことなんて、大きな病気をするか、70歳を超えないとなかなか考えたりしないものですよね。
でも、人生に想定外はつきものです!
いつ、自分が当事者になるか分かりません。
それに、人生会議(ACP)は、別に癌患者だけの問題でもありません。
私は自分が癌になり「5年生存率50%」と医師から言われた時から自分の「死」というものを意識するようになりました。
そして思うのは、よく言われるとおり死と生は裏表の関係で、死を考えることは自分の生き方を考えることだと気づいたのです。
人生会議(ACP)も、「最期、どう死にたいか」ではなく、「最期の瞬間まで、どうやって自分らしく生きるか」という問題だと思うのです。
もしもよかったら、これを機会に人生会議を始めてみませんか?
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