「僕たちが選べなかったことを、選びなおすために。」
幡野広志:著
ポプラ社
多発性骨髄腫という血液のがんで余命宣告を受けた著者が書いた本。
いわゆる闘病記的な内容かと思って手に取り読んでみたのだけど、実際は闘病記という範囲に収まらないもっと深い内容で色々なことを考えさせられた1冊でした。
病気のこと、家族のこと、死生観のことなどなど。
とりわけ家族・親子関係のことについては少しばかり衝撃的な言葉が並び、アマゾンのレビューを見ても、親子関係に悩んでいた人からの投稿が多い印象です。
色々な要素が詰まったこの本から今回は家族や親子関係について感じたことを書いてみたいと思います。
アマゾンの内容紹介
自分の人生を生きろ。写真家で猟師のぼくは、34歳の時に治らないがんの告知を受けた。後悔はない。それは、すべてを自分で選んできたからだ。家族、仕事、お金、そして生と死。選ぶことから人生は始まる。
そもそも家族って誰と誰のこと?
家族とは「親子」の単位ではじまるものではなく、「夫婦」の単位からはじまるものなのだ。同性婚を含め、自分で選んだパートナーこそが、ファミリーの最小単位なのだ。
NASA(アメリカ航空宇宙局)では宇宙飛行士をサポートするにあたり「家族」をどのように定義しているかについて本書の中で触れられています。
家族を「直系家族」と「拡大家族」の2つに分類していて「直系家族」の定義は以下の通り。
- 宇宙飛行士の配偶者
- 宇宙飛行士のこども
- そのこどもの配偶者
つまり、「直系家族」には血の繋がりのある両親、兄弟は含まれていないのです。
著者は知人からこの話を聞き「家族は選ぶことができる」と考える一つのきっかけになったと書いています。
この定義をどう考えるか・・・?
思うに、NASAでは親子、兄弟という血縁関係ではなく、夫婦お互いがパートナーとして選んだ婚姻関係をファミリーの基本として考えているということではないでしょうか?
不勉強なので的外れな見方かもしれませんが・・・私が思うに家族を夫婦の単位で考えるのはキリスト教の影響があるような気がするし、対して日本のように親子関係に重きを置くのは儒教の考え方がベースにあるような気がします。
ちなみにですが、日本の民法では「親族」の範囲を以下のように定めています。
- 6親等内の血族
- 配偶者
- 3親等内の姻族(姻族・・・配偶者の血縁者)
でも、「家族」を定義している法律はないとのこと。
《参考ページ》
親族の法的な範囲(親等)を家系図を元に説明!血族・姻族との違いも
民法で定める親族は遺産相続などが絡んでくることもあってか、配偶者の血縁者(3親等)より身内の血縁者(6親等)を重視している印象があります。
やはり、それだけ「血の繋がり」って重いんですね。
親子関係にまつわる生きづらさ
子どもは、一度でも親から理不尽な暴力を受けると、二度と親のことを好きになれないものだ。その記憶はずっと残り続けるものだ。ぼくは父親が亡くなるまで、彼のことを好きになれなかったし、いまでもその思いに変わりはない。
「血の繋がり」とりわけ親子関係は身近なものなので、人によってはそれを苦痛に感じている人もいるのだと思います。
虐待、暴力、無関心、過剰な干渉、もろもろの理由で「親を愛せない」「あいつは自分の親なんかじゃない」という人も世の中には多くいるように思います。
他人ならば、切って捨ててしまえばいい。だけど、血の繋がりの重さがそれを躊躇させる。
そして、親が病気になったり、介護が必要な状態になった時、親を愛せないこどもはどうしたらいいのでしょう?
でも、子どもには親の面倒をみる義務があるだなんて、育ててもらった恩を返せだなんて、おかしいですよね。わたしたちは、親の老後を世話するために生まれてきたわけじゃない。介護するために育てられたわけじゃない。親の面倒をみるのが嫌なんじゃなくって、それを恩とか義理とかの価値観で縛られるのが嫌なんです」
「親の老後を世話するために生まれてきたわけじゃない。介護するために育てられたわけじゃない」もっともである・・・としか言えない。
だけど、看病もしない、介護もしないこどもは世間から「親不孝者」というレッテルを貼られてしまうじゃないですか。
自分の考えと世間のギャップに生きづらさを感じている人って多いんでしょうね。
家族を選びなおす
ぼくは 、家族もまったく同じだと思う 。少なくとも 「そこに生まれてしまった以上 、永遠に逃げられない場所 」だなんて 、ありえないと思う 。ぼくは自分の人生を自分で選んでいきたいし 、自分の居場所も 、自分の家族も 、自分の手で選んでいきたい 。それはぜったいに 、可能なことなのだ 。
この本を読んで家族ってなんだろう?改めてそんなことを考えてみました。
同居していない親は自分の家族なのか?
お互い結婚して自分の家族を持っている兄弟は家族なのか?
同居しているおじさん、おばさん、あるいは従兄弟などは家族と呼べる?
きっと、答えは人それぞれなんだと思う。
だけど、一緒に住んでいるかどうかで家族が決まるわけではないように思う。
突き詰めて考えれば、家族かどうかを決めるのは本人がどう思っているか?だろう。
たとえ一緒に住んでいても「あの人は自分の家族じゃない」と思えば、親子関係にあってもそれは家族とは呼べないのかもしれない。
著者は「家族とは選ぶもの」だという。
仮に夫婦関係がこじれたらなら離婚することで関係は解消できる。結婚も離婚も自分の意思で「選ぶ」ことができる。
だけど、親子、兄弟という血の繋がりは「永遠に逃げられない」。つまり自分の意思で「選べない」というふうに考えている人が多い感じがします。
それにもしも何かの事情で親子、兄弟の縁を断ち切ったとしても「逃げた」「断ち切った」というネガティブなイメージがついてまわるような気がしませんか?
「家族とは選ぶもの」という著者の言葉の裏には「永遠に逃げられない」と考えられてきた呪縛から解き放たれたい!もっと自分の意思で自由に生きたい!そんな思いがあるように私には感じられました。
感想
家族とは、「与えられるもの」ではなく、「選ぶもの」なのだ。 もしも改善の余地がない関係だったとしたら、たとえ親子であっても、その関係を断ち切ってかまわないのだ。
親子の縁を切る・・・だいぶ重たい話だし、堂々と公言するには勇気がいる言葉でもあるように思います。
実際、著者にとって母親は尊敬できる相手ではなく、幼少期に母親に受けた仕打ちに傷ついたようなことも書かれています。
この本を読みながら、家族は自分の意思で選ぶことができるという著者の考えは単に親を愛することができないからなんだと思っていました。
しかし、「あとがき」にある次の文章を読んだ時に果たして本当にそうなのか?と自分の考えに疑問を感じたのです。
自分が病気であと数年しか生きられないとわかったとき 、ぼくは自分が死ぬよりも先に 、母に死んでほしいとおもった 。冷たい人間とおもわれるかもしれないが 、本音だ 。
いやな話はさっさとすませてしまおう 、多発性骨髄腫であると早々に告げた 。母は元看護師だ 、この病気がどういうものか知っていたのだろう 。ぼくの話を聞いた母は 、少し黙ったあとに怒りの感情をあらわにして 、席を立ち帰ってしまった 。 (中略) 病院のレストランを最後に母とは一度も会っていない 、もう二度と会うつもりはない
著者は骨髄腫で余命宣言を受けているのです。
自分の命が残り数年である時に積極的に親子関係を断ち切ろうと考えるその訳は、もしかしたら親を愛せないから・・・ではなく、親を愛しているからなのではないのか?
わたしにはそんなふうに思えたんですよね。
自分より先に親には死んでほしい。
もう二度と親とは会わない。
一見、冷たく感じられるこれらの言葉の裏には、自分が苦しんで死ぬ瞬間を母親には見せたくない、悲しませたくない・・・そんな思いが隠されているのではないか?
もちろん著者の真意は私には分かりません。単なる私の読み違いかもしれません。
だけど、「死」を前にして過去・現在を見つめ、その意味を問い直し、そして残り少ない未来を「運命」としてではなく自分の意思で生きようとしている著者の姿に私は改めて家族の意味や自分の生き方を考えさせられました。
何かに流されるのでなく、自分の意思でちゃんと生きているのか?と。
(おわり)
《関連記事》
こちらの記事では現在、舌癌の闘病生活を送っている私が癌患者という視点でこの本を読んだ時に感じたことをまとめてみました。
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