「20歳の自分に受けさせたい文章講義」
古賀史健:著
星海社新書
前回の記事では、「文章が書けない!」「文章が支離滅裂になる・・・」「ムダに長文を書いてしまう。。」そんな私の悩みに、この本がどれだけ役に立ったか!というような話しを書きました。
《前回の記事》
[st-card myclass=”” id=368 label=”” pc_height=”” name=”” bgcolor=”” color=”” fontawesome=”” readmore=”on”]
でも、実はこの本を読んでもっと深く考えさせられたことがあるんですよね。
- そもそも、文章は何のために書かれるのか?
- 文章で書き表した自分の「思い」や「主張」はどうやったら読み手に届くのか?
- 読者を惹き込むために必要なこと(正しいだけの文章はつまらない)
今回は、そんなことを中心に記事を書いてみたいと思います。
アマゾンの内容紹介
「話せるのに書けない!」人のための”文書の授業” どうすれば自分の気持ちや考えを「文章だけ」で伝えることができるのか?この授業のスタート地点はそこにある。
そう、僕らは「話せるのに書けない!」のだ。人に口で伝えることはできても、それを頭の中で文章に変換しようとすると、とたんに固まってしまう。
この授業では、現役のライターである僕が、現場で15年かけて蓄積した「話し言葉から書き言葉へ」のノウハウと哲学を、余すところなく伝えていく。
学校では誰も教えてくれなかった”書く技術”の授業をいま、始めよう!
文章を書くことは、他者を動かさんとする「力の行使」である
文章を書くとき、われわれは「結局なにが言いたいんだ?」という問いに”ひと言”で答えられなければならない。”主張”とは、そういうことだ。
自分が有益だと思った情報を伝えることで、他者の心を動かし、考えを動かし、ひいては行動まで動かす。
文章を書くことは、他者を動かさんとする”力の行使”なのである。
ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、LINE、ブログ・・・・
日常的にせっせと文章を書いては、ネットに投稿する。そんな生活をしてませんか?
「今日はAさんと一緒にランチをしました♪とても美味しかったです♡」
そんな他愛のない文章がネットにはあふれている。
私だって、べつに誰に頼まれたわけでもないのに・・・たいしてお金にもならないのに・・・こうして何時間もかけてキーボードを叩いてブログを書いている。
そして、一生懸命に書いた文章をアップしてブログを更新する。
たくさんの人に読んでもらえるかと思いきや、たいして読まれない。。
萎える。。。
それでも、性懲りもなくまたブログを書く。
なんで、私たちはこんなにも文章を書くんでしょうね?
著者によれば「文章を書くことは、他者を動かさんとする”力の行使”」なんだそうだ。
「他者を動かす・・・?」「力の行使・・・?」そんな大層なことは考えてませんよ、という人も多いと思う。私も最初にこの文章を読んでそう思った。
でも、よくよく考えてみると「今日はAさんとランチをしました♪」みたいな文章にだって「今日の私の出来事」を誰かに伝えたいという他者への働きかけがあるんですよね。
まったく見ず知らずの他人のランチに興味はないが、知人でそこに「映え」な料理の写真の一つも添えられていたら「いいね」のボタンくらいは押してしまうかもしれない。
ほらぁ、他愛のない文章一つでもちゃんと、他者の行動まで動かしているじゃないですか!
だけど、もうちょっと長めの文章、例えばブログやnoteなど、を書くときには、もう少し「自分の言いたいこと」を意識して書かないといけない。
3分、5分、と時間をかけて読んでみたけど最終的に「で・・・?何が言いたいじゃ?!」という文章も多い。そもそも何が言いたいのか要領を得ない文章を時間をかけて読んでくれる奇特な人はそんなにいない。。
相手の心を動かす、行動を変える、そういう大層なことを目論む以前に「何が言いたいのか?」よく分からない文章は読んでもらえないのだ!
何となく・・・でブログを書き始め「気分」や「感じ」だけをつらつらと書いていたのだから、私のブログが読まれないのも当たり前田のクラッカーだったのだ。
読んで欲しければ、自分が何を言いたいのか、伝えたいのかをもっときちんと考えてから書け!ってことですね。
説得力のある文章を書くために必要なこと
文章にリズムを持たせるには、もうひとつシンプルな方法がある。
断定だ。言い切ってしまうことだ。
断定の言葉はその切れ味の鋭さゆえのリスクが伴う。
断定の言葉は、あまりに強すぎるのだ。
かなり昔の話だけど、「一応族」という言葉があった。
言葉を交わすと「一応、◯◯が趣味です。」とか、「一応、やりました。」といった具合に、発言の最初に「一応」という言う若者を指した言葉だった
なぜ、「一応」と言うかといえば、断言するリスクから逃げているからだ、と何かの本に書いてあった。
思い返せば、私も文章を書くときなどは「一応」という言葉は使わないにしても、語尾を曖昧にして断言を避けていることが多かったように思う。
「ダイエットして体重を70キロにする!」と書くよりも、「体重が70キロになるようダイエットを頑張ろうと思う」と書いた方が気分的にはラクですよね。
断定を避けるというのは、自信のなさの表れでもあるのだろう。(←断定してない!)
でも、断定を避けるのはそれだけではなく「断定の言葉は、あまりに強すぎるのだ。」と書かれているように、気を付けないと読む人に対して少し「上から目線」という印象を与えてしまう恐れもある。
しかし、一方で断定することで得られるメリットもある。
逃げも保険も打たず、力強く断定すると、それだけで言葉に説得力が出る。
読者は説得力のある言葉を求めており、言葉の説得力は「断定というリスク」を冒してこそ生まれるのだ。
世の中にはオピニオンリーダーと呼ばれる人たちがいる。そうした人々の発言や書いたものを読むと、自分の主張や意見をはっきりと明言している。
例えば、芸能界のご意見番と呼ばれた(少し前の)和田アキ子。歯切れだけはいい(だけど、何を言わんしているのかイマイチわからない)小泉進次郎。
そうした人々の意見に反発する人もいるだろうが、共感する人もいる。
上の方で文章を書く時には自分の主張や意見が大切だと書いたけど、その主張、意見を読む人の心に届けるためには、断定して言い切らなければいけない、ということか。
曖昧な文章は敵を作らない代わりに、共感も生まない。。八方美人な文章はネットの中で埋もれるだけだ。
正しいだけの文章はつまらない
われわれは「正しい」だけでは動かないのだ。頭で「正しい意見だ」と理解できても、肝心の「心」が動かないのである。
一般論を述べるばかりの文章に心が響かない理由は、ここにある。
例えば、「困っているときはお互いさまだから、みんなで助け合いましょう!」と私が熱をこめた文章を書いたとしましょう。
それを読んで感動してくれますか?
共感してくれますか?
たぶん、「はい、はい、わかりました」と言われるのがオチだよね?
だけど、これが大きな震災や台風被害の話しの文脈で語られると、途端に説得力を持つようになる。直接の被害を受けていなくても、みんな地震や台風の被害は他人事じゃないと思っているから。
もう一つ。
少し前にタレントの堀ちえみさんがステージ4の舌癌を公表した時に、ネットには舌癌と口内炎の見分け方みたいな記事がいくつもアップされていた。
いまや日本人の2人に1人は癌になる時代!と言われても、自分が癌になるはずないと思っている人が多数だと思う。
だけど、口内炎なら経験がある。もしかしたら、口内炎と思っていたものが癌だったらどうしよう?あの時は、そんな当事者意識を持った人が多かったのではないかと思う。
この本の中で著者は「基本的にわれわれは、他人事には興味がないのだ」と書いている。
「お互いに助け合おう!」と正しいことを叫んでも、「2人に1人」と統計数値を持ち出しても、他人事と思われた時点でスルーされてしまうのだ。
裏を返せば、読者に興味、関心を持ってもらうためには、いかにして「自分ごと」と思ってもらえるような仕掛けが必要だということですね。
感想に代えて
この本を読みながら思ったのだけど、「文章が書ける」というのも、いくつかの段階があるように思うんですよね。
第一段階・・・頭のなかでグルグルしている感情や思いを言葉に翻訳して文章にできる
第二段階・・・改行、句読点打ち方、漢字とひらがなのバランスに気を使い読みやすい文章が書ける
第三段階・・・思いや感情を整理して、相手に伝わる論理的な文章に構成できる
第四段階・・・興味・関心を持ってもらえる「読まれる文章」が書ける
だいたい、こんな感じでしょうか?
文章が書けない症候群にも色々あるわけですが、この本は本当に最初の一歩、思いを言葉にできないというところから、読まれる文章とはどういうものかというところまで解説してある。
だから、その時々の自分のレベルに合わせて読むべきところも変わると思うし、何度も繰り返して読むべき本だと思う。
最後に・・・
「書くことは考えることだ」と著者は言い、本書の冒頭で次のようなことを書き記している。
「書く技術」が身につけば、ものの見方が変わる。物事の考え方が変わる。そしてきっと、世界を見る目も変わってくる。
大風呂敷を広げた責任は、ちゃんと取るつもりだ。
「大風呂敷を広げた責任はとる!」著者がそこまで断言している1冊である。読まない理由はない。読むべし!
コメント